04.小説

人生最後の食事 (by デルテ・シッパー)

Photo© 2011 シンコーミュージック・エンタテイメント


ドイツの一流シェフ、ループレヒト・シュミットが料理の腕を振るっているのは、ロイヒトフォイヤーというホスピス。

数年前に「24時間後に自分が死ぬと知らされる」という内容の日本映画があり、テレビでその映画の紹介を見たときに、自分だったら24時間で何をするかなぁ?とぼんやり考えたことを思い出しました。

私がまず思いついたことは、普段時間があったらゆっくりやりたいなぁと思いつつできていないこと。

・英語の勉強
まあこれは、24時間後に死ぬとなったら確実にやりません。

・ヨガ
私は毎朝起きてすぐに20分間ヨガをやっているのですが、たまに、これをゆっくり1時間ぐらいやりたいなぁと思うことがあるのです。
しかし、じゃあ私はなぜ毎日ヨガをやっているのか?もちろん健康のためです。毎日体調良く過ごせるため。
ということは、24時間後に死んでしまうとしたら、これもやらないでしょうね。

あとは、単純に自分が好きなこと?

・映画鑑賞
今、24時間後に死んでしまうと想像しつつ、何か映画を観たいか?と自分に問いかけると・・・別に観たくないみたい・・・。
映画を観るときはもちろんそれ自体を楽しんでもいるのですが、なぜ観ているのかと考えてみると、今後の人生を豊かにするため、こうやってブログに感想を書いたり誰かと映画の話をするのが楽しいから、です。
まあ、ブログを書いて自分の記録として残しておくことは無駄にはなりませんが、やっぱりもう映画の話をすることもできないと思うと観ていても楽しくないんじゃないかしら。

・飛行機に乗ってみる
私は飛行機に乗るのが好きなので、「どこかに行くため」ではなく、ただ飛行機に乗っていたい、と思うことがあります。
でもこれも死んじゃう前だったらどうかしら?大好きな飛行に乗ったからって?

・家族や友人と共に過ごす
たぶん悲しくて泣きっぱなしになっちゃうと思います。自分が家族・友人側でもそうなっちゃうだろうし。

こうしてみると、普段深くは考えていなくても、私たちがやっていること(好むと好まざるとにかかわらず)は、やはり今後の人生がある前提なんですね。
そうすると私に思いつくのは、大切な人たちに手紙を書くことぐらいでした。
あとは、まあ24時間あればおなかが空くし眠くなるので、結局この本能的な欲求をかなえることかなぁ。

この本は、まさにその「食べること」が、もうすぐ死んでしまう状態の人びとにとってどういう意味を持つか、ということが(ちょっとだけ)わかるものです。

私が上記のことを考えていたとき、もちろん「美味しいものを食べる」という項目も思い浮かびました。
しかし、これも他のこと同様、ただ経験するだけではなく未来に繋がっているものだと思ったのです。
今まで行きたいと思っていた、でもお値段も高いしなかなかねーというレストランにようやく行くことができたとして、もうすぐ死んでしまうとわかっていながら美味しいものを食べて幸せと感じることができるのだろうか?

ループレヒトもよくこの質問をされるそうです。
そして彼は、「美味しいものことを考えていれば少なくともその間は、自分たちがここにいる理由を考えずにいられる」「健康だろうと病気だろうと、美味しいものが舌の上でとろけるというのは、誰にとっても気持ちいいことであるはずだ」と言います。

毎日のように生と死を目の当たりにする職業(こういった医療関係者や警察官など)についている人が私自身を含め親しい人にはないので、こういう本を読んだり映画やドラマでそういった場面を見ると、彼らはどうやってその厳しい日々を乗り越えているのだろう?と思います。
私が今まで携わってきた仕事ももちろん誰かの役に立っているのだけど、命や生活のライフラインに関わるような仕事ではないので、そういう仕事に就いている人は毎日緊張感が違うんだろうなぁ。(まあ、どんな職業でも私より緊張感持ってお仕事されてる方はたくさんいらっしゃるんですけど・・・)

この本でも当然「死」に関わる場面はありますが、メインはあくまで「食べること」に関するお話です。
ループレヒトはとにかく、毎日毎日入居者それぞれに合った美味しい食事を作ることに全力を注いでいます。
毎朝彼らの部屋に行って話をし、体調を見ながら個々に希望を聞くのです。
実際こういうことが行われているホスピスは世界でも多くはないでしょう。
この本を読んで、たとえそれが数日間であっても、苦しい最期のときにこのような食事をいただけることは、本人にとっても家族にとっても慰めになるだろうと思いました。

それはこのホスピスのモットーの通り。
「人の寿命を延ばすことはできないが、一日を豊かに生きる手伝いはできる」

彼らはよくループレヒトに「思い出の料理」を再現して欲しいとお願いします。
これは、本人たちがいくら詳しく説明してもまったく同じものを再現できるはずがなく(特に別の人が作った場合、彼らにも詳しいレシピはわからない)、また、その「美味しかった思い出」というのは味によるものだけではないので、非常に難しい作業なんですね。
「新婚旅行で食べた」「小さい頃大好きだったおばあちゃんが作ってくれた」など、個人的な記憶が絡んでいるのです。
(まさに、このブログのタイトル「I'll remember the feeling」と同じこと)
そのため、彼らから満足のいく反応が返ってくるとは限りません。
しかし、ループレヒトは「シェフとしてのプライドもほどほどにしないといけません。それができないならここで働く資格なんかありませんよ」と言っています。
「僕は自分の腕前に自信を持っていますが、それを優先させているようじゃだめなんです」

私は食に関するこういったノンフィクションの本が好きなようで、アメリカのシェフ、アンソニー・ボーディン(彼はディスカバリー・チャンネルの「アンソニー世界を喰らう」という番組に出ています。彼、ほんとに何でも食べるの!)が著した「キッチン・コンフィデンシャル」という本もとても興味深く読みました。

美味しいものを食べられる、というのはとても幸せなことで、それを作ることができる、というのはほんとうに素晴らしいことだと思います。
毎日美味しいものを食べるためには、自分で作ることができるようお料理のお勉強と練習をするか、あるいは、お抱え料理人を雇えるよう宝くじを当てるかですね。

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1984年 (by ジョージ・オーウェル)

1984© 2009 早川書房


1948年にイギリスの作家、ジョージ・オーウェルが著した小説。

大好きなアメリカの作家、ポール・オースターの小説の中で、私が最も気に入っている作品が「最後の物たちの国で」だということを考えると、私はディストピア小説が好きなのかしら?

映画を観たり小説を読んだりするときに、よく「現実逃避」という言葉が使われます。
私は恋愛映画が好きですが、基本的に恋愛というのは映画で観るものではなく自分で経験するものだと思っています。
そのため、恋愛映画を観るのはそれほど現実逃避という感覚ではありません。あくまで参考というか。
しかし、このようなディストピア小説を読む(そういう映画はあまり観たことがない気がする)ときは完全に、現実とは違う世界を楽しんでいます。
だってこんな生活、考えただけでつらい!経験したくない!
本を読んで、わー苦しいって思うだけで充分です。

まあ、もちろん、他にも経験したくない・できないシチュエーションの物語はたくさんあるけれど、この「1984年」のような世界は私にとって現実逃避の最たるものです。

この小説の主人公であるウィンストンは真理省に勤め、歴史記録の改ざん作業を行っています。
これがまた次々と仕事が湧いてくる作業で、もうほんとに読んでいていも気が遠くなりそうでした。
それは常に上書き保存なので、彼らはその作業をしているうちにどこがどう変わって来たのかがわからなくなってしまいます。
ビッグ・ブラザーの狙いはまさにそれなのですが、私たちの記憶というのも記録がなければこんなものです。

大恋愛で始まったはずの関係も、冷めてしまうと初めの頃の気持ちを思い出すのは難しいし、時間が経つといやで別れたはずの恋人でも、いい思い出しか浮かばない、ということもよくあります。
だから私は、こうやって映画や本の感想を書いたり日記をつけておく、というのは後の自分のためだと思っています。

私がこの小説の中で最も印象に残ったのは、最後にウィンストンがジュリアに会うシーンです。

彼女の肉体と顔つき。
精神状態によって見かけが変わってしまう、というのは、「ジキル博士とハイド氏」でも明らかですが、このシーンでも悲しいぐらいの変貌ぶりでした。

そしてもうひとつ、彼女の「本気で言ったんじゃないって振りをすることもあるのかもしれない。でもそれはやっぱり違う。なにかを口走っているときは本気でそう言っているのよ」という言葉にもぞっとしてしまいました。

口にしているということは、少なからずそう思っている。確かにその通りです。
自分は思ってないけど周りに合わせて、などと言っても、やはりほんとうに口にしたくないことは言わないし、いわゆる営業トークなどもまあいってみればうそだったりするわけですが、商品を売るためであっても決して口にしたくないことというのはあります。

発言というのは常に誤解されたりトラブルが起きる可能性があるものです。
そのときに、せめて「自分はその発言に悔いはない」と思えるように、言葉に対するポリシー(なんていうとちょっと大げさに聞こえますが)と発言に対する責任を持つことは大切だなぁと、改めて思います。

「言葉」ということでもうひとつ興味深かったのが、この小説の中で使われる「ニュースピーク」。
なるべく少数の単語を組み合わせて作った簡潔な言語です。
例えば、「良い」「悪い」という反対の意味を持つふたつの単語は、「良い」「良くない」という否定形を使うことによって表されます。
これは、外国語を勉強しているときに、こういう風に簡単にいかないかなぁ、と思うような考え方ですね。
この小説の中のように、自分の考えを持たないことがよいとされる世界であれば、このような言語は簡単でいいと思いますが、単語が少ないということは個性的な表現ができないということなので、やはり簡単ならいいというものではないとも思います。

英語で映画の感想を書くときに、今私が感じている「素晴らしい」というのはどの単語を使ったらいいのだろう?と、この意味を持つ英単語たちとよくにらめっこをします。
なんでこんなにいっぱいあるの?!と思ったりもします。
でもよく考えると、日本語で映画の感想を書くときも「おもしろかった!」とか「よかった!」ぐらいしか使っていないから、ニュースピークでも充分だったりして。

私は、小説を読むときにどれだけ夢中になれるかというのは精神的な要素が絡んでいると思っています。
この小説は最初、なんかだるい内容だなーと思っていたにもかかわらず、気がつくと一気に読み終わっていました。
そうやって惹きこまれる小説に出会ったときって幸せです。(その直後に読む本がつまらなく感じたりもするのだけど)

この本は、いつかどうしても現実逃避がしたくなったときに、もう一度じっくり読みたいと思っています。

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孤独な夜のココア (by 田辺聖子)

Photo© 2010 新潮社

12篇の恋愛短編集。
甘いお話・切ないお話・悲しいお話、内容はいろいろですが、すべてのストーリーで涙が出てきた短編集は初めてです。

ここ数年、彼女の小説を好んで読んでいますが、まったく古さを感じさせないところが素晴らしい。
これ新刊だよ、と言われたらすんなり信じてしまいます。
私が同じことを感じるのがスティーヴィー・ワンダー。
彼の曲はどれを聞いても、新曲でもおかしくないなぁと思います。

この短編集もリリースされたのは1978年。
恋愛観というのは時代ではなく(もちろんその影響もあるとは思いますが)、個人の考え方によるものだということがよくわかります。
彼女の小説に出てくる女性はみんな、しっかりしていてさっぱりしていてものわかりがいい。
そしてなによりかわいらしい。

私が読んだ文庫版は2010年の改版で、作家の綿矢りささんが解説を書いています。
彼女の作品はまだ読んだことがないのですが、とてもいい解説で(この解説でもまた泣いた)、彼女の小説もそのうち読んでみようと思いました。

私は何に関しても、出逢いというのはタイミングが重要だと思っています。
好きになった本があるといつも、今読んでよかった、と思います。
この本も読んだタイミングがよかったのかな。

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変身 (by フランツ・カフカ)

Photo_30© 1985 新潮社

私がこれを初めて読んだのはもうおとなになってからでしたが、とても有名な小説なので、読んだことがなくても「変身」という題名や「朝目覚めたら虫になっていた」というあらすじはもちろん知っていました。
そのショッキングな設定から、勝手におどろおどろしい小説なんだろうとイメージしていました。気持ち悪そうだから読まないでいいや、と思っていたのです。
それがどうして10年ほど前に読もうと思ったのかは覚えていませんが、これほど読んでみてイメージと違った小説はありません。
 
もうひとつ、「変身」ほどではないですが、小学生のときに読んだ宮沢賢治の「注文の多い料理店」もイメージしていたものとは違いました。
読む前から題名にはとても興味をひかれていて、「変身」とは逆におもしろそうだなぁと思っていました。星新一の本を読み始めた頃だったので、どんな展開なのか?どんな落ちがつくのか?と、勝手にイメージを膨らませていたのです。
そのため読み終わったときは、「なんだ、題名通りじゃん」という感想でした。まあ童話なので、落ちとか期待するなって話です。

本を読む前に過度の期待を持っているとがっかりしてしまうし、逆に悪いイメージを持っていると読むのを敬遠してしまってもったいないので、読む前に勝手にイメージを膨らませない方がいいとつくづく思います。
 
勝手なイメージと言えば、私は童顔で5~10歳ぐらい年下に見えてしまうため、たいていの人は実年齢を聞くと「えーっ?? そんなに歳なのー?」という反応をします。
これもイメージとの差があったためですが、こちらとしては、そもそも年相応に見えていればそこまで驚かれる年齢ではないので、非常に心外です。(まあ、実際は私も他の人に対してそういう反応をしてしまっていることあるんだろうなぁ…)
以前お寿司屋さんで話しかけてきたおじさんが私のことをずっと18歳ぐらいだと思って話していたらしく、25歳ということがわかった途端「だまされた!」ぐらいの勢いで去って行ったことがあります。あれはひどかった!
  
この小説で、なにがかわいそうかって(もちろん虫になってしまったこともかわいそうなのですが…)主人公がずっと「ああ、もう起きないと仕事に遅れちゃう」と思い続けていることです。
彼は目が覚めた時点ですでに遅刻の時間で、その後も刻々と時間が過ぎて焦っていく様子が、読んでいる側をも焦らせます。しかも彼はその仕事を好きでやっているわけではなく、両親の借金を払うためいやいや旅ばかりの営業職についているのです。
それでも健気に、もうすぐ元の状態に戻って仕事に行くことができるだろう、と思い続けているのです。
そして、こんな状況にありながらも彼は冷静にこの状況から抜け出そうと努力します。
 
登場人物はみんな多少混乱しているものの、物語はほとんど、虫になってしまってどんなに動きにくいか、また家族の気持ち・今後の生活のことなどを主人公が冷静に語る形で進んでいきます。
彼が自分のことを客観的にユーモアを交えて語っているその文章が私にはとても好ましく、この小説は非常にシュールでおもしろいコメディだと思っています。
ちょっと手伝ってくれれば簡単に動けるのに、とか、会社の上司の身にもこんなことが起きないとも限らない、とか、天井にへばりついているのが気持ちがいい、とか、彼のかわいそうな状況を知っていても、そのクールな語り口に思わずにやりとしてしまうシーンがたくさんあります。
 
主人公グレーゴルの妹は、冒頭から食べ物を運んだり部屋の掃除をしたり、両親が兄を避ける中ひとり甲斐甲斐しく世話をします。いい妹だなぁ。(結局最後にグレーゴルを見捨てるべきだと言いだすのも彼女なのだけど)
一方父親はグレーゴルにリンゴを投げつけ、結果的にはそれが原因で彼は死んでしまいます。
 
私はこの小説を読んで、兄がある日突然虫になってしまったときに落ち着いた対応ができるよう、日頃から家族で話し合っておくべきだと強く思いました。
まさに、ボーイスカウトのモットーでもある「そなえよつねに:Be Prepared」ということです。
備えるということで言えば、ついでに私を含めたすべての人は、実年齢を聞いた時に失礼にならないリアクションを考えておいた方がいいと思います。

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ON THE ROAD ( by Jack Kerouac )

On_the_road © 2010 河出書房新社

「ビートのバイブル」といえば1957年に発表されたこの小説。(*1)

「ビート好き」っていうとかっこいい、みたいな風潮がちょっとかっこ悪いというイメージがあります。
「好きな歌手はスティング」っていうとわかってるーみたいなのと同じように。(別にビートにもスティングにも恨みはありません)

そして私の中では、ビートというと夜じゅうお酒やドラッグやって寝不足でシャワーもちゃんと浴びてなくて、文字通りビート(くたびれた)な状態・・・といったイメージなので、最近はお酒も控え目・早寝早起きの健康的な生活を心がけている私としては、読んでいるとちょっと具合が悪くなってきそう、という理由でつい敬遠してしまいます。
まあでも、実際には別にそういう小説を読んだからといって二日酔いになるわけでも寝不足になるわけでもなく、結局アメリカの小説や映画が好きであれば、ビートは避けては通れない道です。あ、道だ。ロードだ!(*2)
 
ケルアックの「地下街の人びと」は数年前に読んだのですが、肝心のこの「オン・ザ・ロード」は、ずいぶん前から本屋さんで見かけるたびに、そのうちねと思っていました。たぶんもうちょっと薄かったらもっと早く読んでいたと思います。
1年前ぐらいから、もうそろそろ読んでみるか、と思っていたら、今年6月に河出文庫から青山南さんの新訳版が出て、結果的にこれを待っていたみたいな感じになりました。

私はブコウスキーとブローディガンも読む前はビートだと思っていたのですが、ブコウスキーが活躍したのはビートジェネレーションよりもっと後だし、ブローディガンはビートニクは好きじゃないと言っていたそうです。
でもふたりとも名前はなんとなくビートっぽい響きじゃない?長いからかな?でもミルハウザーは長くてもビートっぽくない。

以前から「ビートニク」という言葉はちょっと不思議だなぁと思っていました。グループを表すのに「ニク」ってつく言葉は他にない。
これはあるコラムニストが、この小説が発表された1957年に打ち上げられた「スプートニク」をもじって「非アメリカ的なもの」という意味をかけて言ったのが初めだそうです。なるほどねー。

私が観たビートを題材にした映画で、すぐに思いつくのは「バロウズの妻」(*3)と「死にたいほどの夜」(*4)。
しかしこれらを観ようと思ったのも、キーファーとキアヌが出ているからという理由で、ビートとは関係ありませんでした。
 
「死にたいほどの夜」にも出てくる、「結婚して白いフェンスの家に住む」というのは、アメリカではイコールおとなになる・落ち着くといった放浪とは対極の生活の象徴らしく、それらを求めているにも関わらずどうしてもそうなれない、というシチュエーションはドラマや映画でよく見かけます。
甲斐性のある男性を探しているはずなのに、なぜかだめんずにひっかかってしまうみたいな感じですかね。
(注:この例えはフィクションであり、実在の私とは一切関係ありません)

そういえば、ある映画で「放浪の日々」というセリフを英語では「Kerouac days」と言っていました。
私はこのDVDを英語字幕で観ていたときだったから気づいたけれど、聞いただけでこれを「放浪の日々」と理解するには、まずはケルアックの名前を知っていて、こういう小説を書いているということも知っていて、その前に「Kerouac days」を聞き取れないといけない!字幕なしの道のりは遠いなぁと思いました。

今まで、この小説のタイトルは、「路上」や「路上にて」と訳されていたのが、今回は「オン・ザ・ロード」となっています。
確かに直訳すると「路上にて」なんだけど、たった3語を日本語で言い換えただけなのに、私は印象がまったく違うものに感じます。

映画や小説・曲の邦題って、気にしてみるとおもしろい。

英語をそのまま日本語に置き換えただけの直訳でも、「オン・ザ・ロード」とは逆に英語と日本語で印象がまったく同じに感じるのは、ポール・オースターの小説の中で私が一番好きな
「In The Country of Last Things 」=「最後の物たちの国で」

邦題は知っているけどそういえば原題ってなんていうんだろう?と思い、それを知って驚いたのは
「Dr. Strangelove 」=「博士の異常な愛情」
これ邦題素晴らしいよね!こう来るとは思わなかった!

しょーもなくて笑っちゃうのが
「Must Love Dogs」=「理想の恋人 .com」
これはダイアン・レイン演じるバツいちの女性が、出会い系サイトに登録してみるというストーリー。
アメリカではこういうサイトは日本よりも気軽に使っている感じです。彼ら、ブラインド・デート好きだしね。
で、この「Must Love Dogs」(犬好き)というのは相手に求める条件の項目によくある言葉なのだそう。
まあ、意訳としては理想の恋人をインターネットで探すっていう内容をきちんと表してはいるんだけど、だからって「ドット・コム」はひどい!映画のチケット買うときにちゃんと「理想の恋人ドット・コム1枚ください」って言った人がいるとは思えない。

もうひとつ、邦題が興味深くて、先日も兄と熱い議論(?)を交わすこととなったのが、Chicagoの大ヒット曲「Hard to say I'm sorry」が「素直になれなくて」という邦題になっていること。

アメリカ人はとにかくよくけんかをしてよく謝る。付き合い始めた恋人たちが初めてけんかをした後にうれしそうに「our first fight だね」と言う場面は多くあります。けんかをすることによってより親密な関係になるということなのでしょう。
親子で言いあい、なんてことも日常茶飯事。その後彼らはすぐに反省し謝る、そして赦す。(*5)ハグをして一件落着。
キリスト教で、「罪を告白して赦しを得る」というのが重要な信仰儀礼であることも関係しているのだと思いますが、こういう状況に慣れていない日本人の私からすると、そんなにすぐ謝るならあんなこと最初から言わなきゃいいのに!と思ってしまいます。
何かの映画で、たとえ殺人のような重大な罪であってもその後に必ず赦されるチャンスがあるのに対して、自殺というのは本人がすでにいないために赦すチャンスを与えられない、ということが最も重い罪とされている理由だと言っていました。(他にも「自己への愛を否定しているから」「神が有する生と死への絶対的主権を拒絶するものだから」など、理由はいろいろあるようです)
だから自殺をした人は、生前どんなに熱心な信者だったとしても教会で葬儀を行うことはできないんだって。
 
なんの話だっけ?

Chicagoの話だ。
アメリカ人にとっては「Hard to say I'm sorry」は「素直になれない」感じなのだろうけど、日本人にとって「素直になれない」というのは、「好きなのに冷たくしちゃう」とか「なかなか好きって言えない」みたいな感じです。
兄がこの日米文化の違いとしてまとめたことは、「アメリカ人は素直に好きって言えない、なんてことないんだろうね」
納得。

Chicagoの話じゃなくて、「オン・ザ・ロード」の話でした。
つまり私が言いたかったのはただ、今回「オン・ザ・ロード」をそのままにしたのはよかったと思う、ということです。

この小説の舞台は40年代。ケルアックはバップが好きで、チャーリー・パーカーやマイルスの名前も頻繁に登場しますが、当時彼らはまだ新人で、バップも生まれたばかり、NYのバードランドもオープンしたてです。
今でこそ、この小説も教養として読まれることもあると思いますが、当時はビートもバップも流行りものだったわけです。
昔はおとなたちに不良の音楽などと言われていたビートルズも今ではなんのお咎めもなく聴くことができるし、時代が変わるというのはほんとうにいいことで、今こういう昔の音楽や小説が簡単に手に入ることをとてもありがたいと思います。

この小説では、エルパソとニューオリンズを通る南のルートや、シカゴやソルトレイクシティーを通るルートをたどりながら、NYとサンフランシスコを何度も行ったり来たりします。当時は「ビートニク=非アメリカ的」だったかもしれませんが、ただひたすら同じ眺めの砂漠を車で横断するなんて、「アメリカ的」以外のなにものでもありません。
これは、ビートジェネレーション以降に、ロード(放浪)を題材にした映画などが多く作られているからでしょう。

そして月並みですが、ケルアックを語るときに欠かせないのがやはり表現の美しさ。
卑猥なセリフなのにディーンが言うとそれがとてもロマンチックな表現に聞こえるし、ペンシルバニアのことを「ペンシー」、サンフランシスコのことを「フリスコ」、コヨーテもいないような荒野のことを「コヨーテ・ノーウェア」と言ったり、かわいらしい響きの言葉がたくさん出てきます。

全編を通して素敵なフレーズばかりですが、楽しく悩んで5つを厳選してみました。
「どんなに飲んでも、吹きさらしのトラックに風が突進してくるので酔いはぜんぶ吹っとび、気持ちよさだけが腹にたまる。」
「太陽はブルゴーニュの赤が一条走った葡萄をつぶした色で、畑は愛とスペインの神秘の色になった。」
「なにを言っているのか、まるでクリアではなかったが、なにが言いたいのかはピュアですこしクリアだった。」
「ぼくは好きなことが多すぎて、いろんなことをごちゃごちゃにしたまま、流れ星から流れ星へと走りまわったあげく落っこちるというのだ。」
「まったく想像がつかない旅だった。最高にわくわくした。今度はもう東西ではない。魔法の南なのだ。」

小説や音楽というのは、その言葉・メロディーがシンプルで親しみやすいものであればあるほど、読み手・聞き手がすんなり受け入れてしまうため、生みの苦しみが隠れてしまいます。(創り手としては別にそれを見せたいわけではないのだろうけど)
ふだんはそんなことを気にしていなくても、自分でちょっと手紙を書いたり鼻歌を歌ってみたりするだけで、シンプルで美しいものを創造することがいかに難しいかを実感して、改めてその作者への尊敬の念が湧いてきます。

この小説を読んで私がいちばん心に残ったことは、話をすることの重要性です。
ディーンはいつでもサルに話したいことがたくさんあって、彼らはたくさん話をします。大陸を横断してまで会いに行って話をしたい相手がいるって素敵なことです。
そしてサル(ケルアック)はその人のことを書きたかった。それを読んだ私もこの本について書きたかった。表現するというのは素晴らしいことです。

ただひとつ問題なのは、これだけ長々と感想らしきものを書いているのに、ほとんど小説の内容と関係ないということ。
人生においても、本の感想を書くときにも、寄り道はするものだということがよくわかった一冊でした。

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*1 あのピンチョンも「偉大なアメリカ小説の一つと信じている本」と言っています。
この文章が書いてある「スロー・ラーナー」の序文で彼は、20年前に自分で書いたものを読むことはエゴにとって打撃になる、とも言っています。確かに。

*2 「道路」と「ロード」の発音が似てるっておもしろい。
あと、以前道路標識に「鹿骨・Shishi-bone」って書いてあるのを見て、なんで骨だけ英語なの?! と思ったら、「bone」は「ボーン」ではなく「ぼね」でした。一瞬「シシボーン」かと思うよねぇ?

*3 原題はずばり「BEAT」
キーファーはウイリアム・バロウズ役。彼の代表作「裸のランチ」のタイトルはケルアックがつけたとか。
ちなみにバロウズの妻役はコートニー・ラブ。

*4 原題は「The Last Time I Committed Suicide」。これは原題も邦題もけっこう好き。
「オン・ザ・ロード」のディーンのモデルになったと言われているニール・キャサディーの物語で、キアヌは友人のハリー役。
同じ青山南さんの翻訳で出ている「スクロール版 オン・ザ・ロード」には、キャラクターたちのモデルになったニール・キャサディーやギンズバーグ、バロウズなどが実名で登場するそうです。彼らのファンだったらこれは堪らないだろうなぁ。

*5 「apology accepted」っていうフレーズがいかにも赦す文化っぽい。
日本だったらaccepted以前に「こっちこそごめんね」ってなるよね。

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夏への扉 ( by Robert A. Heinlein )

The_door_into_summer © 1957 The Ballantine Publishing Group.

<概略>

ロバート・A・ハインラインが1957年に発表した小説で、SF小説が好きな兄に勧められて読みました。
私はSFにはあまり興味がなくほとんど読んだことがないのですが、小説をジャンルでカテゴライズして苦手意識を持ってしまうのはもったいないと実感した1冊です。

<分析>

・夏

主人公ダンが飼っている猫のピートは、家にある11の扉のうちの少なくともひとつは夏へ通じているという確信を持っていて、その扉を探すのを決してあきらめようとはしません。
この小説に惹かれた大きな理由のひとつに、タイトルにも使われている「夏」という言葉があります。
夏生まれで夏が大好きというのは珍しくもないですが、私にとって「夏」というのは単なる季節を表す言葉ではなく、すべての楽しいこと・うれしいこと・幸せなことの象徴なので、タイトルからして私の愛読書になるのは必然だったようです。

・発明品

主人公のダンはマシン・エンジニアで、お掃除ロボット「ハイヤード・ガール」万能ロボット「フレキシブル・フランク」製図マシン「ドラフティング・ダン」などを開発します。
これは1957年当時にどこまで現実味があったのかわかりませんが、ドラフティング・ダンは今では設計者なら誰もが使っているCADのことだし、物のないところを自動的に掃除し充電器の場所へちゃんと帰るというロボットも、現在ではすでに珍しいものではありません。
私は大学で機械工学を勉強し、卒業してから機械設計の仕事に携わってきましたが、初めてこの小説を読んだのは私が社会人になって数年目、設計のおもしろさがわかってきた頃でした。
ダンがこれらのマシンのアイデアを語ったり、コストダウンのためにいかに市販の部品を利用するか、故障の際のメンテナンスはどのようにすれば効率的か、といった開発・製造・販売する過程が私にとって理解しやすかったというのも、私がこの小説を気に入った大きな要因でした。

・タイムトラベル

この物語にはコールド・スリープとタイムマシンが登場し、ダンは1970年→2000年→1970年→2001年を旅します。
タイムトラベルを扱った物語にはタイムパラドックスがつきものですが、私にとって重要なのはいかにそれらを考えさせることなくストーリーが進んでいくかであり、そのテンポがよければそれらの矛盾点(そりゃーおかしい点もでてくるよねー)はあまり気になりません。

ダンは元々1970年で生活していた人なので、1回目のコールドスリープで2000年に行ったときは新しい言葉や洋服などに戸惑っていましたが、そこでたった半年ほど過ごしただけで、もう一度1970年に戻ったときに多くの不便を感じていたのが、ありそうなことだと思いました。
20年前に戻れるとしたら懐かしくてちょっと楽しそうですが、映画館の上映時間を新聞で調べなきゃいけないってめんどくさいよなーと思います。i-podないし。

私はある本を読んでいる間に頻繁に聴いていたアルバムが、その物語のサウンドトラックのように感じてしまうことがよくあります。
物語の後半で、ダンが2001年の自分とリッキーにとってすべてが丸くおさまるように、あちらこちらを飛び回っている様子がOscar Petersonの「Call Me」という曲の軽快なピアノとぴったりなイメージで、私が「夏への扉」を映画化するとしたらテーマ曲はこの曲に決まりです。

・リッキーとピート

子供と動物が出てくるとヒットするとはよくいわれていることで、この小説にも女の子と猫が重要な役で登場します。
ただ、この物語の中では、ふたりとも単なる「かわいい存在」という感じではなく、たまたま主人公にとって信頼できるキャラクターが子供と動物だった、ぐらいな感じで、登場時間もそんなに長くありません。そんなわけで、猫が苦手な私でも大丈夫(?)でした。
リッキーがダンに小さい声で「お嫁さんにしてくれる?」というシーンと、コールドスリープから目覚める日付を「必ずしも今日ではなく、ダンが訪ねて来た日」に変更していたシーンは、微笑ましいと同時にちょっと感動的でもあります。(先日この本を読み返した後に「源氏物語」をこれもまたちょっと読み返していたら、紫の上がリッキーとダブってきてしまいました)

・ 翻訳書×原書

この小説は、日本では1963年に福島正実さん(彼は50年代から60年代に、日本で海外のSF小説を紹介することに尽力された方で、最相葉月さんの「星新一 1001話をつくった人」にたくさん登場しています)の翻訳でハヤカワSFシリーズとして発表されました。
私が兄からもらったのはこれが文庫化されたものです。

その後、アメリカに留学していた頃、よく通っていた本屋さんでこの原書を手に入れました。
いちど日本語で読んだことのある小説、しかもそれが自分の好きな小説であれば、英語で読むのも苦になりません。
昨年新たに、早川書房から小尾芙佐さんの新訳版が出ました。

両方を比べてみると、確かに福島さんの訳は今読むとちょっと古い感じで、小尾さんの新訳は読みやすくなっていました。
私にとってはやはり最初に読んだ福島さんバージョンが日本語版オリジナルという感じですが、これは単に私の思い入れの違いでしかなく、どちらで読んでも本来この物語が持っている軽快なテンポ感は変わらず、発明品の名前などの違いも些細なことでしかありません。

外国語から翻訳された本を読んでいるときにいつも考えるのは、いいと思ったのはストーリー自体なのか翻訳者の文章なのか・・・ということです。翻訳者に関わらず好きな作家がいたり、ある翻訳者が手掛けている作品に好きなものが多かったりするということは、恐らくそういった要素が混ざっているのでしょう。
しかし、日本語訳を読んでいると、多少理解できる原語(英語以外にはありませんが・・・)であれば、原書を読んでみたくなるものです。やはり元のニュアンスを感じ取れるのは楽しいもので、逆にひとつの原文が翻訳者によって違った文章として生まれ変わるというのも興味深いことです。

ちなみにここに載せた写真は原書の表紙です。
ピートと女性(たぶんリッキー?)が未来っぽいイメージで描かれていて、しかも絵がちょっと怖い。
それに比べて日本語訳の表紙はどちらもピートがメインの絵になっていて、新訳の方はさらにさわやかなイメージです。
私は本を読むときは必ずカバーを外すのですが、新訳版を購入してカバーを外してみると、それはそれはあざやかなブルーの本で、きっと夏への扉もこんなきれいな色をしているのだろうと思わずにはいられませんでした。

<結論>

私はこの本を読んで以来、たとえそれを見つけるまでに気が遠くなるほどたくさんの扉を開けてみなくてはならないとしても、夏への扉を探すのをあきらめたらいけない、と思っています。
私もピート同様、どこかに必ず夏への扉があるということを信じているからで、ダンも最後にこう言っています。
「You know, I think Pete is right.」

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The Outsiders ( by S.E.Hinton )

The_outsiders © 1983 Universal Pictures.
忘れもしない14歳の夏。
兄に勧められたのか、当時人気だったトム・クルーズやエミリオ・エステヴェスの出演映画の原作として興味を持ったのかはもう覚えていないけれど、この本との出会いは、私が「アメリカの小説っていいものだなぁ」と思った最初の経験でした。

この小説の何が素晴らしいって、それぞれのキャラが立っていること。
主人公のポニーボーイは、貧しいメキシコ系不良グループの一員でありながら本を読むのと夕陽を眺めるのが好きな少年。
ポニーのお兄さんのソーダポップは弟思いで誰からも好かれるとびきりのハンサムさん、ケラケラ・マシューズは呑気で陽気で根っからの楽天家など、キャラクターの設定がわかりやすい上に名前がなんともかわいらしい。

1983年にフランシス・フォード・コッポラ監督で製作された映画は、ストーリーもセリフもほぼ原作に忠実。
この小説はポニーが書いた作文という形式を取っているので、寡黙なポニーの一言にはいろいろな思いが詰まっている(まあ、小説ではたいていがそうなのだけど)ということが、映画では短時間でまとめるために急ぎ過ぎてしまって表現できていないのが残念。
なので、私は断然小説の方が好きなのですが、この映画はとにかくキャスティングが素晴らしいので、映画としての出来はどうでもいいんです。
この映画には、1980年代にブラット・パックと呼ばれていた若手俳優(というか、この映画をはじめとする青春映画に出ていた俳優をまとめて「ブラット・パック」と呼んでいた)がたくさん出ています。

中でも、ポニー役のC.トーマス・ハウエル、ソーダ役のロブ・ロウ(先日「ロブ様大人気!」みたいな見出しを見たとき、ロブ・ロウ今人気なの!?と思ってしまい、そんなわけないかと苦笑しました)ダラス役のマット・ディロン、チェリー役のダイアン・レインはまさに小説のイメージ通り。
小説を先に読んで映画のキャストに納得っていうのは、私はこの映画しか思いつきません。
数年前に、これも当時から好きだったキーファー・サザーランド主演のドラマ「24」に、トーマス・ハウエルが出演していました。
25年も経てば当然なのだけど、彼は当時の面影を残したままちゃんとおじさんになっていたし、ラルフ・マッチオの代表作「ベスト・キッド」がリメイクされたり、ロブ・ロウが上院議員の役をやるようになったり、パトリック・スウェイズは癌で亡くなってしまったり・・・。

この本は日本語でも何回も読んでいますが、原書で読むのも楽しいです。
私の拙い英語力でも、ポニーはこういう言葉づかいをするのかーと、よりこの小説の雰囲気を感じられます。
マスタングという車を知ったのもこの小説だったし、私が文庫本にして5冊の「風と共に去りぬ」をあっという間に読めてしまったのも、この小説の中でポニーとジョニーが読んでいたからです。
子供の頃は小説や映画の中のおとなの気持ちが理解できなくて、いつかわかるようになるのかなぁと思っていました。
おとなになると、おとなの気持ちも、自分が経験してきた子供の気持ちも理解できるので(その共感度が薄れてはいるのだろうけど)おとなになるっていいなぁと思います。

とは言っても、やはりこの小説がいまだにこんなに愛おしく思えるのは、初めて読んだのがティーンネイジャーの頃だったからです。
あの夏にこの小説に出会えて私は本当にラッキーだったと、今改めて思います。

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